Column文化遺産コラム

文化遺産の「コト」

世界文化遺産を守る修復建築家

2024年02月29日

文化遺産国際協力のいま 羽生 修二

東海大学 名誉教授

今日まで残る世界文化遺産の多くは、「修復建築家」という人々によって、その時代の価値観を反映した修復が施されながら守られてきました。本コラムでは、その修復建築家について、国内外の文化遺産の保存修復事業に広く携わってこられた羽生修二先生に、ご自身の経験を通して考えたことをご紹介いただきました。

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  • はじめに

    私たちを魅了する世界文化遺産は、創建当初の状態をそのまま残して、今日まで建ち続けているわけではありません。世界文化遺産は、長い歴史を経て、さまざまな時代の変化を受けながら大切に扱われたり、破壊の危機に襲われながら今日に至っています。そこでは、時代の価値観に基づいた修復という手が加えられてきました。その修復を担う重要な役割を果たしてきたのが、修復建築家です。私がこの修復建築家について、初めて深く理解するようになったのは、フランスに留学して修復建築家を養成するエコール・ド・シャイヨで学び、修復建築家の事務所で指導を受けたことがきっかけでした。
    エコール・ド・シャイヨの授業では歴史や修復の理論と方法を学ぶだけではなく、歴史的建造物や町並みの活用再生を提案するアイデアや図面も求められ、新しい時代に向けての建築家としての役割を考える機会も得られました。修復建築家は、日本における文化財建造物の修理を担う技術者とは異なる、過去と未来をつなぐデザイナーやプロデューサーでもあることを学び、フランスの修復建築家制度を誕生させた背景には、19世紀の建築理論家かつ建築家でもあるウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク (1814-79)の存在が大きな影響を及ぼしたことに興味を抱き、修復建築家ヴィオレ・ル・デュクの研究に着手しました。その後、日本国内だけではなく、海外の保存修復事業にも実際に携わってきたので、世界文化遺産の保存修復を担う修復建築家について考えたことを紹介させていただきます。

  • パリのノートルダム大聖堂は19世紀の修復で蘇り、21世紀の修復で大火災から再生へ

    フランスの文化財保護制度はヴァンダリズム(文化財破壊)の反省から始まった

    14世紀半ばに完成したノートルダム大聖堂(写真1)は、18世紀に入って、流行に惑わされた建築家の改築による破壊が繰り返され、廃墟と化してしまいます。そして、フランス大革命のヴァンダリスムがそれに拍車をかけ、彫像類は切り落とされ、ノートルダム大聖堂の歴史を語る装飾はすべて削り取られました。

     

    写真1:2019年4月に起きた大火災以前のノートルダム大聖堂

     

    この悲惨な状況に対して、ヴィクトル・ユゴー(1802-85) らの呼びかけで修復が始まります。この修復を中心的に担ったのが、ヴィオレ・ル・デュクでした。彼は、2019年4月19日の大火災で焼け落ちた交差部尖塔を設計した修復建築家で、近代的な修復理論の先駆者としても知られています。彼の修復理論は、『中世建築事典』第8巻「修復」の項で詳しく述べられ、それを読み解くと、「堅牢性の保証」、「歴史的または美的価値の表明」、「有用性の重視」という、修復の三原則を提示しているのがわかります。つまり修復が施されても、すぐに崩壊するような構造的問題を引き起こすことがあってはならないこと、歴史的または美的価値が損なわれるような修復は保存ではなく破壊であること、修復された歴史的な建造物が活用されず、単なる展示物で、人が生活できないような修復は何の役にも立たないというものです。

     

    これらの三原則は、理論的には正しいとしても、実際にはしばしば対立することが少なくありません。ヴィオレ・ル・デュクが実際に行った修復でも、この三原則すべてを同時に遵守している例はなく、最終的には彼が独断で修復したものとして、批判されました。彼が設計したノートルダム大聖堂の尖塔も中世に建っていた尖塔とはまったく違った豪華な尖塔となってしまい、歴史家たちから歴史的価値を無視した修復だとして非難されました。なぜなら、尖塔基部の回りに福音史家と十二使徒の彫像を新たに付加し、その中にヴィオレ・ル・デュク自らをモデルとした彫像を入れたからです(写真2)。しかし、この尖塔がまもなく同じ姿で復元されて、ノートルダム大聖堂の復興のシンボルとして再び蘇ろうとしています。

     

    写真2:ノートルダム大聖堂交差部尖塔の足元を飾る、聖トマに扮したヴィオレ・ル・デュクの彫像

     

  • 日本による木造家屋を保存修理する技術指導と住民の生活改善を目的とする町並み保存

    ベトナム・ホイアンを世界遺産に導いた日本人チーム

    古都ホイアン(写真3)は1999年に世界文化遺産に登録されますが、1991年から、昭和女子大学を中心とした日本人チームが調査研究を行ってきました。

     

    写真3:ホイアンの町家

     

    その中で、私は1994~95年度の伝統的町家の調査に参加させていただきました。私たち建築史の調査班は、伝統的町家の歴史的あるいは美的価値を明らかにすることや建物の耐久性などについて調べることが中心でしたが、実際に生活されている住民の方々の住環境についても同時に聞き取り調査を行い、住民の生活改善についても考えるようになりました。まだ世界文化遺産に登録される前で、ホイアン市や住民が経済的に困窮していることもあり、住環境を向上させる余裕のない家屋が少なくありませんでした。そこで、日本チームは、建築史の調査グループだけではなく、住民の住環境を向上させるための建築計画グループ、そして町並み全体の保存整備と経済社会の活性化を考え、まちづくりについて提案する都市計画グループが混成するプロジェクト・チームが組織されました。そして、その調査による成果を踏まえて、個々の伝統的民家の修理・復元については、日本の修理技術を活かして「堅牢性の保証」と「歴史的あるいは美的価値の表明」が実現され(写真4)、住民が住み続けるための生活環境の改善と観光都市としての経済的活性化を目指したまちづくりが提案され、実行されました。

     

    写真4:日本人技術者の指導の下で行われている町家の修復

     

    これは、ヴィオレ・ル・デュクによる修復の三原則に基づいたものであり、日本の建築史、建築計画、都市計画の3チームがいわば修復建築家の役目を果たしていたといえます。しかし、現実には、経済的な発展が伝統的町家の文化財的価値を損なうことや、ホテル、レストラン、お土産店ばかりのリゾート地になって、古都ホイアンの歴史的町並みが本来の歴史的価値を変貌させてしまう危険性もはらんでいます。こうした現象はホイアンだけの問題ではなく、京都や鎌倉、そして私が関わっている川越でも同じことがいえます。観光地として繁栄し、経済を優先させることによって、本来の歴史的価値が疎かにされたり、住民の生活や福祉を向上させることを後回しにしてしまうことにならないのか、懸念されています。

  • 修復建築家の国際協力

    ルーマニア・モルドヴァ地方プロボタ修道院の保存修復事業

    写真5:モルドヴァ地方の典型的修道院の配置

     

    ルーマニア・モルドヴァ地方のプロボタ修道院の保存修復工事は、1996年からユネスコの日本信託基金で進められ、ユネスコ、ルーマニア文化省、日本の三団体が協力して事業を実行しました。保存修復に直接関わるグループは、建築、フレスコ画、考古学の3部門が中心となり、建築部門は、ブカレストのイオン・ミンク建築大学の建築家ヴィルジリウ・ポリズー教授とユネスコ側のイタリア人担当官アルフェオ・トネロット氏の二人が共同で統括していました。日本側は芝浦工業大学の三宅理一教授が両者の調整役を担い、ルーマニア側とユネスコ側の修復建築家間の方法論的対立を調整する役割も果たしていたように思います。私が1997年10月にはじめてルーマニアの修道院建築を訪ねた時、プロボタ修道院では、すでに壁画の修復と床暖房設置工事が行われていました。

     

    モルドヴァ地方の修道院は、人里離れた谷間の美しい田園風景の中に佇み、中庭の中央に配された墓廟としての聖堂が配置されています(写真5)。聖堂は、東西の軸線上に東から天井に高いドームを架けた三葉形の身廊であるベーマ(至聖所)とナオス(内陣)、墓室、ドーム状ヴォールトを架けた大きな長方形のプロナオス、そして玄関としてのナルテクスが並ぶ単廊式平面を採用し、ヴォールトとドームで構成された天井の上に木造の小屋組が載る形式が採られています。外観はナオスの上部にそびえ立つ塔と軒の出が2~3メートルも飛び出した板葺きの屋根が架かり、室内外の壁面一杯にフレスコ画が描かれているのが特徴です(写真6)。

     

    写真6:外壁に描かれたフレスコ画の修復

     

    組積造である聖堂は地震国であるルーマニアにとって耐震補強という問題を常に抱え、プロボタ修道院についても、構造補強がなされていました。壁体上部に鉄筋コンクリートのリング臥梁を回し、さらにヴォールトやドームの上に鉄筋コンクリートのキャッピングを施していました(写真7)。この修復方法は1970年代にフランスで頻繁に行われたやり方で、耐震補強という観点からすると有効だったのですが、室内側に描かれた壁画にとっては保存科学の上ではあまり良いやり方ではありません。また、床暖房工事についても、ルーマニア側の反対意見があったにもかかわらず、ユネスコ側の提案に基づいて実施されていました。イタリアの床暖房システムをスイス人コンサルタントの協力を得ながら、最高10℃から12℃の温度を設定できるようになり、寒い冬の修復作業がスムースに続けられる成果がありましたが、フレスコ画の保存という観点から問題が生じ、室内の微気候に対するモニタリングを始めることとなりました。さらに聖堂の床を現状変更することとなり、どのような仕上げにするかという議論も巻き起こり、また床暖房システムの将来のメンテナンスがルーマニア側だけで対応できるのかどうか、という問題も残りました(写真8)。

     

    写真7:ヴォールトとドームの上に鉄筋コンクリート造のキャッピングで補強

     

     

    写真8:聖堂の床暖房工事

     

    以上のように、国の異なる修復建築家たちの国際協力には、難しい問題が生じることが少なくありません。とくに歴史的建造物の修復については、地元の地域的特性を十分理解せずに、グローバルな技術論だけですべてを適用すると堅牢性も歴史的価値も失われてしまうことになってしまいます。プロボタでの経験は、修復建築家の国際協力がいかに難しいものかを強く感じさせてくれました。

     

  • 修復の歴史を知って、歴史的建造物の新たな魅力を発見

    世界文化遺産の美しさに感動するだけではなく、それを守ってきた人々についても注目しよう!

    世界遺産は過去から現在へ引き継がれた人類の宝物であり、後世に伝えていかなければならない貴重な遺産として定義されています。それは、「過去の時代にこの宝物がいかにして守られ、修復されてきたか」という歴史も同時に伝えていくことを意味しています。長い歴史を経て建ち続けてきた歴史的建造物が、さまざまな存続の危機を乗り越えながらも、美しい姿で私たちに感動を与えているのは、修復という先人たちの努力があったからです。

     

    例えば、世界遺産として有名なモン・サン・ミシェル修道院の歴史を振り返ってみても、大天使聖ミカエル出現の伝承がある花崗岩の岩山に10世紀になって岩盤を削って初期ロマネスクの地下聖堂が建設され、ロマネスク、そしてゴシックへ(写真9)と構造技術の革新に伴って増改築が繰り返されたために、建築群が迷路のように積層して現状のような構造となりました。一時は、軍事施設や監獄として使用されることもあり、廃墟のように扱われた時期がありましたが、19世紀以降の修復で、現在のように蘇りました。満潮の時には海に浮かぶ孤島となり、引き潮の時は陸続きとなる高さ80mの岩山を舞台にして、人類の偉大なる英知が築きあげた唯一無二の複合建造物であるモン・サン・ミシェルが、どのようにして建設され、修復が行われてきたのかを知ることで、モン・サン・ミシェルの魅力がより深く理解できるのではないでしょうか(写真10)。

     

    写真9:ロマネスク様式の身廊(手前)と15世紀に建設されたゴシック様式の内陣(奥)

     

     

    写真10:人類の英知が厳しい自然条件を克服しながら、増改築や修復を繰り返して築き上げた奇跡的建造物群

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