Column文化遺産コラム

文化遺産の「コト」

世界文化遺産に登録されたジョグジャカルタ 語られた物語と語られざる物語

2024年04月05日

文化遺産国際協力のいま 青山 亨

東京外国語大学 理事

インドネシアのジャワ島中部内陸に位置する古都ジョグジャカルタは、その郊外にある仏教のボロブドゥール寺院遺跡群とヒンドゥー教のプランバナン寺院遺跡群で有名です。どちらもユネスコの世界文化遺産に選ばれています。そのジョグジャカルタが「ジョグジャカルタの宇宙論的枢軸とその歴史的建造物群」として2023年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。インドネシアで10番目となる世界遺産について、長年、東南アジアの文学史や宗教史を研究されてきた青山 亨先生(東京外国語大学 理事)に、その意義と語られざる側面を紐解いていただきました。

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  • 「宇宙論的枢軸とその歴史的建造物群」

    ジョグジャカルタは、歴史的にはジョグジャカルタ王国の王都であり、現在はジョグジャカルタ特別州の州都です。町の中心にはスルタンの称号をもつ王の宮殿(クラトン、地図内11)が位置しています。クラトンを基点として北方約2.5キロには高さ15メートルの塔(トゥグ、地図内12)が設置されている一方で、南方約2.5キロには物見塔(パングン・クラピャック、地図内13)が建てられており、これら3つの建造物を結ぶ南北5キロの軸が宇宙論的枢軸とされています。トゥグのさらに北方には標高2930メートルの活火山ムラピ山がそびえ立ち、パングン・クラピャックの南方には霊界を統べる南海の女王が住むと信じられているインド洋が広がっています。宇宙論的と名付けられたのはジョグジャカルタの都市計画がジャワの宇宙観と直結しているからに他なりません。

     

    (地図)ジョグジャカルタ周辺の主な歴史的文化遺産。

     

    世界遺産には南北軸に沿って配置された歴史的建造物が含まれています。代表的なものをあげると、クラトンの北面にあるアルン・アルンと呼ばれる広場の西側には大モスクが建っており、イスラームの信仰とクラトンとの深い繋がりを象徴しています。クラトン自体は、方形の城壁によって取り囲まれた、東京ドーム30個分の広大な敷地の中に位置しています。現在、城壁の中には人家が密集し、2万5千人ほどの人々が生活をしています。城壁内でとくに際立つのは、クラトンの南西方向にある水の宮殿(タマン・サリ)と呼ばれる建造物群です。ここはかつて平時にはスルタンの憩いの場であり、有事には防衛拠点の役割を担っていました。

     

    ジョグジャカルタの歴史は、1755年のギヤンティ条約により、2世紀近く続いてきたマタラム王国が分裂したことに始まります。当時マタラム王国の都はスラカルタにありましたが、王国から袂を分かったマンクブミ王子は、スラカルタを離れてジョグジャカルタの地に新都を造営し、スルタン・ハムンクブウォノ1世として王位に就きました。1世が構想した基本的な都市計画は、彼の末裔である現在の当主ハムンクブウォノ10世によって国際的な認知を獲得したと言えるでしょう。

    • (写真1)ジョグジャカルタの街並みの背後に朝日を浴びてそびえるムラピ山。噴煙がたなびく様子が見て取れます。インドネシア屈指の活火山であり、噴火や地震が続いています。左手の奥に見える山頂はムルバブ山です。

    • (写真2)北のアルン・アルンから見たクラトンの正面。対になったバンヤン(ベンガルボダイジュ)の木が特徴的です。アルン・アルンはクラトンの南側にもあり、どちらも祝祭日などには儀礼や夜市の会場になります。

    • (写真3)城壁の南側の城門。城壁の外と出入りできる数少ない通路の一つであるため、交通が絶えません。

    • (写真4)城壁の北東隅の堡塁。近年になって城壁の四隅の堡塁が復元されました。南側に民家の壁が見えており、もともとあった民家を取り壊しての復元であることが分かります。

    • (写真5)タマン・サリ。スルタンが王妃たちと憩う内苑でした。一時期、水が涸れて荒れていましたが、修復されて水が張られた今では「映え」を求める観光客の撮影スポットになっています。

    • (写真6)北のアルン・アルンの西側にある大モスク。この周辺はカウマンと呼ばれ、イスラームの信仰の拠点となっています。

    • (写真7)トゥグ。トゥグは「塔」の意味です。クラトンの説明では、スルタンが北面して瞑想するとき、トゥグを思い描いて精神を集中させると言います。当初のトゥグは1867年の地震で倒壊し、現在のトゥグはオランダの援助を受けて再建されたものです。

    • (写真8)パングン・クラピャック。クラピャックは「狩り場」の意味です。スルタンの狩り場がここにあり、屋上の物見台から獲物を狙ったと思われます。クラトンの説明では、こちらが女性原理のヨニ、トゥグが男性原理のリンガを象徴していると言います。

  • 「マタラム王国の歴史」

    王都ジョグジャカルタの造営の出発点は、1755年のギヤンティ条約でマタラム王国が分裂したことにありました。裏を返せば、ジョグジャカルタは「本家」の王都スラカルタよりも新しい都だということです。さらに言えば、オランダが1619年に占拠し、造営を始めた植民都市バタヴィア(現在のジャカルタ)の方がもっと古参だということになります。それではジョグジャカルタの構造の起源とその独自性はどこにあるのでしょうか。さらに歴史をさかのぼって探ってみましょう。

     

    ジャワ中部の内陸ではインド系の王国が栄えた時期がありましたが(地図内1、2)、10世紀からの歴史の表舞台は、長きにわたってジャワ東部にありました。ようやく16世紀になって、パジャン王国(地図内3)が成立したことで、歴史の舞台は再びジャワ中部の内陸に回帰することになります。パジャン王国の家臣の1人が現在のコタグデに領地を下賜され、その子セノパティのときに独立したのがマタラム王国の始まりとされています。コタグデには王国草創期の王族たちが眠る王墓(地図内4)が現存しています。

     

    第3代のスルタン・アグンは、徳川幕府の第3代将軍家光とほぼ同時代の人物です。軍事指導者として領土を拡大し、王国の最盛期をもたらした英傑であるだけでなく、革新者でもありました。マタラムの王として初めて「スルタン」の称号を使い、イスラームの暦に基づく改暦を実施するなど、イスラームの信仰を国政に取り込む一方で、コタグデの南方のイモギリ(地図内6)に王家の新しい霊廟を建設し、コタグデに替わる新しい王都カルタ(地図内5)の造営を始めました。残念ながらカルタはスルタン・アグンの在世中に火災で焼失し、造営事業は放棄されてしまったようです。

     

    スルタン・アグンの後を継いだアマンクラット1世は、煉瓦造りの都プレレット(地図内7)をカルタの北東約1キロの地点に造営しました。王都を訪れたオランダ人の記録や今も進む発掘調査のおかげで、王都が南北軸に沿って建設されており、クラトンの北側にアルン・アルンがあり、その西側に大きなモスク(地図内8)が建立されていたことが判明しています。伝承によればセノパティが南海の女王と出会ったとされていることを考え合わせると、ムラピ山とインド洋を結ぶ南北軸に沿ってクラトンやモスクを配置して王都を造営するという構想の原型が遅くともプレレットにおいて具体化していたことがうかがえます。

     

    プレレットはジャワ東部を拠点とする反乱によって1677年に陥落し、マタラム王国の都は東方のカルタスラ(地図内9)に移りますが、これも1742年、バタヴィアの華僑虐殺事件に端を発する反乱によって荒廃し、1746年、カルタスラの東方に新しく造営されたスラカルタ(地図内10)に王都が移ることになりました。その後、1755年、王位継承を巡る争いによって王家はスラカルタとジョグジャカルタに分裂し、マタラム王国は消滅しますが、さらなる継承争いの結果、スラカルタの王家からはマンクヌガラ王家、ジョグジャカルタの王家からはパクアラム王家が分立し、現在に至るまで4つの王家が並立しています。

    • (写真9)バタヴィア城の穀物倉庫跡。バタヴィア城の南東隅の堡塁につながる形で、遅くとも1652頃に穀物倉庫として建設されました。バタヴィア城の関連施設としては現存する唯一の貴重な遺構ですが劣化が進んでいます。

    • (写真10)コタグデの王墓の敷地への入り口。邪鬼の侵入を防ぐ壁が目を惹きます。王墓自体は撮影が禁じられており、紹介できませんが、マタラム王国草創期の多くの王族が眠っています。マタラム王国の開祖の王墓なので、ジョグジャカルタとスラカルタの両王家によって維持されています。

    • (写真11)プレレット考古博物館に復元保存される井戸。プレレット県にあるクダトンという地名はジャワ語で「王宮」を意味し、かつてのクラトンの所在地と考えられています。プレレットの考古博物館が設置されており、敷地内で復元保存されている井戸はクラトン内の井戸と推測されています。

    • (写真12)王都プレレットのモスク遺構。1649年頃にアマンクラット1世によって建立されたモスクとみられ、発掘調査と整備が進んでいます。遺構に残る複数の巨大な礎石から、壮大な規模のモスクであったことが想像されます。プレレット考古博物館の北1キロのカウマンにあります。カウマンとは、モスクの管理に関わる敬虔なムスリムの居住地のことで、地名に歴史の記憶が刻まれていることが分かります。

  • 「語られた物語と語られざる物語」

    カルタスラもスラカルタもジャワ島北岸に流れ出るソロ川流域に位置していますが、ジョグジャカルタ(地図内11)はコタグデの西方、チョデ川とウィノンゴ川に挟まれた場所に位置しています。言い換えれば、ジョグジャカルタこそが、インド洋に流れ出るオパック川の流域、すなわち創始者が開拓したマタラムの地に立ち返った王都であると言えるでしょう。「新参」のジョグジャカルタが「本家」のスラカルタに対して宇宙論的枢軸を主張できる優位性はここにあると考えられます。

     

    ムラピ山とインド洋を結ぶ南北軸に沿った王都の配置がジョグジャカルタの独創ではないことはすでに見てきたとおりです。また、南北軸の物語を語ることによってこぼれ落ちた歴史的建造物は世界遺産の中には含まれていません。たとえば、クラトンの東方に目をやると、チョデ川の東側には小規模ながらパクアラム王家のクラトンがあり、さらにガジャウォン川の西岸には、ハムンクブウォノ2世が建立したとされるワルンボト遺跡があります。

     

    実はジョグジャカルタのスルタン王家はジョグジャカルタ特別州知事を兼任しており、今も人々が生活するジョグジャカルタの地域振興の責任を背負っています。現状の南北軸には取り込めない遺跡や歴史的建造物にはあえて目をつぶって、ジョグジャカルタの宇宙論的枢軸という壮大な物語にまとめあげたところに、「古都ジョグジャカルタ」というブランドを守り育てようというスルタン王家のしたたかなプロデュース戦略を読み取ることができます。

    • (写真13)パクアラム王家のクラトン。パクアラム王家は、ジャワが一時イギリスによって統治されていた時代、スルタン王家から1813年に分立しました。クラトンは、スルタン王家のクラトンに比べて小ぶりですが、瀟洒な優美さがあります。

    • (写真14)ワルンボト遺跡。18世紀後半、ハムンクブウォノ2世が王子の時代に建立したとされます。ガジャウォン川の西岸に位置し、王族の休憩所であるとともに防衛拠点の役割も兼ねていたと思われます。2006年のジャワ島中部地震で破損したあと修復されました。

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