Column文化遺産コラム

文化遺産の「コト」

文化遺産から南アジア世界の形成過程をさぐる

2025年04月08日

文化遺産国際協力のいま 上杉彰紀

鶴見大学文学部文化財学科 教授

このコラムでは広大な地域空間に多様な自然環境を包摂する南アジアが、文化的多様性を内包しつつも、どのような過程を経て一つの「文化的世界」をかたちづくるようになったのか、またその特質について各地に残る文化遺産から考えてみたいと思います。

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  • インダス文明と周辺地域の関係

    青銅器時代の南アジア西北部に栄えたインダス文明(前2600〜前1900年頃)は、都市と文字をもつ文明社会です。パキスタン領内ではモヘンジョダロ遺跡(写真1)、インド領内ではドーラーヴィーラー遺跡(写真2)が世界遺産に登録されていますが、そのほかにも数多くの都市・町邑・村落遺跡が存在しています。

    その形成期(前3500〜前2600年頃)をみてみると、インダス川流域とその周辺地域における地域社会・文化群と西方のイラン高原との交流関係をみることができ、それが文明社会の形成に大きな役割を果たすことになりました。また、文明時代にはメソポタミアやペルシア湾岸地域、中央アジア南部との交流を築いたこともよく知られているところです。

    こうした成り立ちと発展の過程をみると、インダス文明は西方との強い関係を有していますが、文明社会が発展するなかで周縁地域の開発が進み、文明が衰退する前後の時期には東方へ拡大していく様子をみることができます。つまり、本来西方との関係が強かったインダス文明が南アジア西北部に広域に展開する過程で、東方とのつながりが強化されていったといえます。西と東をつなぐインダス文明は南アジア世界の形成過程の第1段階と評価することができるでしょう。

    • 写真1 モヘンジョダロ遺跡(パキスタン、筆者撮影)

    • 写真2 ドーラーヴィーラー遺跡(インド、筆者撮影)

  • ガンガー文明の形成とインド半島

    前1900年頃にインダス文明が衰退すると、その東北のガッガル平原からさらに東のガンガー(ガンジス)平原に遺跡の分布は移動していきます。同様に東南のグジャラート地方からインド半島西北部にもインダス文明の文化伝統を継承した文化が展開するようになります。

    続く鉄器時代(前1500年〜西暦紀元前後)にはこうした東方の開発が著しく進み、ガンガー平原では前600年頃に都市社会が成立しました。ガンガー平原とその周辺地域には大規模な都市遺跡が数多く残るとともに、都市社会のなかで生み出された仏教に関わる遺跡も出現するようになります。遺跡として確認できるようになるのは前2世紀頃以降のことになりますが、世界遺産にも登録されているサーンチー(写真3)やボード・ガヤーの仏教寺院は、ガンガー平原の都市社会の繁栄と拡大を背景にしたものといえます。

    インド半島部では南インド巨石文化(前1200〜西暦紀元頃)と呼ばれる石造墳墓(写真4)を特徴とする文化が広く展開します。都市が生み出されることはありませんでしたが、この文化の時代にインド半島部を覆う交流ネットワークが形成され、資源開発も著しく進みました。ガンガー平原とインド半島部のあいだにも交流関係が形成され、前3世紀頃までには南アジアを広く覆う交流ネットワークが形成されることになります。

    鉄器時代から古代にかけての社会変容は前3世紀から西暦紀元前後にかけて段階的に進展し、西暦紀元前後までにはインド半島部でも都市が出現します。この鉄器時代は南アジア各地が結びつけられていく時期であり、南アジア世界の形成過程における第2段階とみることができます。

    • 写真3 サーンチー遺跡の仏塔(インド、筆者撮影)

    • 写真4 南インドの巨石文化 カディリラヤチェルヴ遺跡(インド、筆者撮影)

  • 古代における南アジア世界の形成

    前3世紀以降、鉄器時代から古代へと移行していく過程において、南アジア各地の都市が重要な役割を果たしました。マウリヤ朝やサータヴァーハナ朝、クシャーン朝などの王朝が広大な領域を支配するとともに、各地を結びつけていきます。各地の都市は広域交流ネットワークを支える基盤として著しく発達することになります。南アジア各地を結びつけた交流ネットワークは陸海双方の交通路を介して、中央アジア、西アジア、東南アジアへと拡大していきます。

    世界遺産でみれば、パキスタン領内にあるタクシラー都市・仏教遺跡群(写真5)、タフティ・バーイの仏教遺跡、サフリ・バフロールの都市遺跡、インド領内では上掲のサーンチー、ボード・ガヤーに加えて、インド領内のアジャンターの石窟寺院(写真6)やナーランダーの仏教僧院がこの時期の南アジア世界の様相を物語ってくれるでしょう。スリランカのアヌラーダプラ都市遺跡、ランギリ・ダンブッラ石窟群、アフガニスタンの危機遺産であるバーミヤーンの仏教遺跡もこの時期の南アジアと深く関係しています。

    この時期は古代都市と広域交流ネットワークによって南アジア各地のみならず、周辺の広大な地域が結びつけられた時代であり、南アジア世界が確立した段階ということができるでしょう。

    • 写真5 タクシラー遺跡群内のダルマラージカー・ストゥーパ(パキスタン、筆者撮影)

    • 写真6 アジャンター石窟(インド、筆者撮影)

  • 中世以降の南アジア世界の展開

    古代後半(5〜6世紀頃)と中世前期(7〜13世紀頃)には、南アジア各地に割拠した政治勢力によってヒンドゥー寺院が建立され、南アジア世界としての文化的まとまりが強化された様子をみることができます。世界遺産に登録された例だけでも、中央インドのカジュラーホ寺院群(写真7)、西インドのエローラ石窟群、エレファンタ石窟群、ラーニー・キー・ワーウの階段井戸、東インドのコナーラク・スーリヤ寺院、南インドのパッタダカル寺院群(写真8)、タンジャウールなどに残るチョーラ朝期寺院群、マハーバリプラム寺院群、カーカティーヤ朝下に造営されたルドレーシュワラ寺院がこの時期の文化遺産として残り、そのほかにもこの時期のヒンドゥー寺院の優例が各地に残っています。

    13世紀以降、イスラーム諸王朝は北インドから南アジア各地に支配地域を拡大し、その過程で各地に多様なスタイルをもつ城塞やモスク、マドラサ、墓廟などの建築を築きます。各地に残るイスラーム建築の様式は中世前期以来のヒンドゥー建築と混交して、著しい多様性をみせています。パキスタンのタッタに残る建築群や、インドのデリー、アーグラーに築かれた多数の建築群など代表的なものだけでも数え切れないほどです。北インドだけでなく、インド半島のデカン高原に残る地方色豊かなイスラーム建築も注目に値します(写真9)。

    こうした中世の文化遺産もまた南アジア世界の文化的多様性と統一性を物語っています。多様性と地域間交流を内包する統一性は、青銅器時代以来の地域社会と文化伝統が重層的に積み重なるなかで生み出されてきた南アジア世界の特質ということができます。いずれの時代においても、周辺地域からの人と文化の流入があり、南アジア世界のダイナミズムを生み出したことも重要です。

    世界遺産に登録された遺跡や史跡はもちろんのこと、あまり観光客も訪れることのない無数の文化遺産が南アジア世界の歴史を豊かに物語ってくれます。言い換えれば、文化遺産の背景にある南アジア世界の成り立ちと歴史的背景を読み解いていくことが重要であるといえるでしょう。

    • 写真7 カジュラーホのヒンドゥー教寺院(インド、筆者撮影)

    • 写真8 パッタダカルのヒンドゥー教寺院(インド、筆者撮影)

    • 写真9 ビージャプルのイブラヒーム・ロウザー・モスク(インド、筆者撮影)

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