Column文化遺産コラム
渤海の港湾都市(クラスキノ城跡)
2026年03月23日
文化遺産国際協力のいま 小嶋芳孝
金沢大学古代文明・文化資源学研究所 客員教授
ロシア連邦沿海地方ハサン区クラスキノ村にある、渤海(698~926年)の港湾都市だったクラスキノ城跡を紹介します。
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渤海史の概要
渤海(698-926年)は現在の中国東北地方と北朝鮮北部、ロシア沿海地方南部を領域とした古代国家です。696年に営州(中国遼寧省朝陽市付近)で契丹の李尽忠が反乱を起こし、混乱した機会に営州付近にいた高句麗人と靺鞨人が東に脱出し、698年に振国を樹立しています。713年に初代王の大祚栄が唐から渤海郡王に叙せられたことで、国名を渤海と名乗るようになりました。渤海は初期の都を図們江流域(吉林省)に置きましたが、794年から926年までは牡丹江中流域の上京城(黒竜江省牡丹江市)に都が置かれました。926年に契丹(遼寧省北部・内蒙古自治区)の攻撃を受けて、渤海は滅亡しました。
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渤海の領域とクラスキノ城跡の位置・日本との航路変遷
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渤海上京城1号宮殿基壇
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渤海上京城第二寺址の石灯籠
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渤海上京城宮殿から南に延びる道路(日本道)
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渤海と日本の交流
渤海は日本に34回の使節を派遣し、日本も14回の使節を派遣しています。日本と渤海の交流は、遣唐使による唐との交流よりも頻繁に行われました。日本に派遣された渤海船は、ロシア連邦沿海地方南部のハサン区にあるポシェト湾から出航したと考えられています。『新唐書』には、渤海の都から日本に向かう道を「日本道」と記し、その管理を東京竜原府がおこなうと記されています。ポシェト湾に面するクラスキノ村の海岸にあるクラスキノ城跡は東京竜原府に置かれた塩州城で、渤海の遣日使や日本の遣渤海使を管理したと考えられています。
727年に最初の渤海遣日使が蝦夷の領域に来航し、24人中16人が蝦夷に殺害され、残った8人が出羽国府を経て平城宮で聖武天皇に謁見して渤海王大武芸の国書を渡しています。この時から渤海と日本の交流が始まります。渤海使節は8世紀代には主に出羽(山形県・秋田県)など東北地方と加賀(金沢市周辺)に来航し、9世紀代には加賀と隠岐(島根県)など山陰地方に来航しています。
来航した渤海使は、その時点の国内事情などをもとに朝廷が入国の可否を判断していました。入国を許可された渤海使節は陸路で都に入り、公式行事や貴族や官人達との文物交易を終えて能登の福良津(石川県志賀町福浦港)から渤海へ向けて出航していました。入国が許可されなかった渤海使節は、来航地で文物交易をおこなって渤海に戻ることが多かったようです。
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渤海船が出航した福良津(石川県志賀町福浦港)
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クラスキノ城跡の調査
クラスキノ城跡では1980年代からロシア科学アカデミー極東支部歴史学考古学民族学研究所(以下はロシア隊と記します)が発掘調査を開始し、城内北部で寺院跡や瓦窯などを発掘しています。また、韓国の研究機関(以下は韓国隊と記します)が1990年代からロシア隊と共同調査を開始し、1993~1994年には大陸研究所、1998年には韓国美術史研究所、2001~2002年には韓国高句麗研究会、2004~2006年には高句麗研究財団、2007~2018年には東北アジア歴史財団がそれぞれロシア隊と共同調査を実施しています。1996年には、日本の青山学院大学考古学研究室(以下は日本隊と記します)が共同調査を開始しています。
ロシア隊と韓国隊は城内北部の寺院区画周辺での発掘調査を進め、井戸跡や瓦窯・鍛冶炉跡など寺院造営に必要な施設跡を検出しています。クラスキノ城跡では、周囲に延長約1300mで高さ約3mの石積み城壁が構築されています。渤海の平地城を囲む城壁は土築が一般的で、石積み城壁が確認されているのは王都の上京城とクラスキノ城跡だけです。このことは、日本と往来する渤海使や日本の遣渤海使が滞在したクラスキノ城跡(東京竜原府の塩州城)を、渤海の王権が重要な外交施設としていたことを如実に示しています。
クラスキノ城跡では、東・西・南の三ヵ所に城門が置かれています。この内の東門を日本隊が1996年から調査を進め、926年の渤海滅亡前後に城門の外側にコの字状の城壁を築いていることが明らかになっています。このような城門は、日本の戦国~江戸時代の城で外桝形と呼ばれる城門と同じ構造で、大陸では日本より早い10世紀代の宋や遼の平地城で普及しています。中国考古学では外桝形門を瓮城もしくは甕城と呼んでいて、10世紀初頭前後に構築されたクラスキノ城跡の瓮城は構築年代の古い事例になります。瓮城が渤海と契丹の緊張関係の中で建設されたのか、または渤海滅亡後にクラスキノ城跡を支配した集団が防御施設として建設したのか、これまでの調査ではまだ確定されていません。
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クラスキノ城跡平面図(田村晃一『クラスキノ』渤海研究中心2011年から転載
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ポシェト湾
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クラスキノ城跡の遠望
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クラスキノ城跡の石積城壁
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クラスキノ城壁東門の本体城壁(正面)と瓮城城壁(写真右端)・石積みが異なる
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クラスキノ城跡調査の現状
1990年代から始まったクラスキノ城跡でのロシア隊と韓国・日本隊との共同調査は大きな成果を上げていました。しかし、2020年初頭に新型コロナウイルス感染症が世界的に広がり、2022年にウクライナ戦争が勃発したことで、クラスキノ城跡での国際共同調査は現在まで中断されています。こうした中でロシア隊による発掘調査は継続されており、近年では黒竜江大学を中心とする中国隊が共同調査をおこなっています。クラスキノ城跡でおこなわれていたロシア隊と日本隊・韓国隊の国際共同調査の再開は、今後の国際情勢の推移の中で判断されることになると思います。
古代東アジア諸国の交流史を知る上で、日本と渤海の交流拠点となっていたクラスキノ城跡はとても重要な遺跡です。クラスキノ城跡の調査では塩州城の官衙施設解明や城壁構築過程など、課題が多くあります。ふたたび、ロシア隊と渤海関係諸国の研究者による共同調査を再開できる日が来ることを願っています。