Column文化遺産コラム

文化遺産の「ヒト」

バーミヤーンとともに生きた前田先生を偲ぶ:前田耕作先生の業績を語る会への参加報告を通して

2023年03月31日

インタビュー 藤井郁乃

東京文化財研究所 アソシエイトフェロー/ 文化遺産国際協力コンソーシアム事務局

2022年10月11日、文化遺産国際協力コンソーシアムの顧問であった前田耕作先生が永眠されました。ここでは、長らくコンソーシアムを支えてくださった前田先生への感謝と追悼の思いを込めて、前田先生を慕う有志によって2023年2月23日に開催されたシンポジウム「前田先生の業績を語る会」の報告とともに、前田先生が歩んでこられた軌跡をたどりたいと思います。

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バーミヤンに魅せられて

  • 会場に集まった人々

前田先生は1964年に名古屋大学の調査団の一員として初めてバーミヤン遺跡を訪れました。現地で迎えた最初の朝、ホテルの窓からは朝日に照らされ荘厳に輝く大仏が見えたそうです。当時はバーミヤンにも、仏教美術にも特別関心があったわけではなかったそうですが、ふりかえってみれば、この渡航と大仏との対面が、その後の前田先生の人生を大きく方向付けるきっかけとなっています。 →当時のエピソード 

 

以来、前田先生は、アフガニスタンやパキスタンをフィールドとして、アジア文化史の調査・研究に取り組んでこられました。と言っても、前田先生の活動は決して文化史の調査・研究の枠におさまりきるものではなく、アフガニスタンの今を生きる人々に向けての支援にもおよんでいます。1979年、ソ連のアフガニスタン侵攻によって多くの難民が発生した際には、呼びかけ人の一人として「アフガニスタンを愛する会」を立ち上げて難民救済のための活動を始められました。この活動は戦火が収まる1989年頃まで、およそ10年間にわたって続けられました。

 

2001年、タリバンによってバーミヤン遺跡の象徴であった大仏が爆破されてしまいます。砂塵を巻き上げながら崩れ落ちていく大仏の様子は国際社会に大きな衝撃を与えました。戦火が一時的に収まった2002年、前田先生は25年ぶりにバーミヤンの地を訪れます。しかし、そこで目にしたのは想定をはるかに超えて徹底的に破壊された大仏の姿でした。失意と怒りの中で、前田先生の心に深く刻まれた言葉があります。それは、戦火によってほとんど廃墟と化したカブール博物館の入口上部に掲げられた一文でした。
「文化がまだ生き残っているとすれば、国もまた生き残れよう」

 

以来、前田先生は、ユネスコ日本信託基金事業のもとで結成された調査団の中心メンバーとしてバーミヤン遺跡の保存修復に尽力されるとともに、アフガニスタン文化研究所を設立し日本とアフガニスタンの架け橋として多岐にわたる活動をされました。「前田先生の業績を語る会」に集った多くは、このバーミヤン復興の旅路で前田先生と出会い、ともにアフガニスタンの過去、現在、未来について語り合ってきた人々でした。

前田先生の業績を語る会の様子

青柳正規先生(文化遺産国際協力コンソーシアム会長)による開会挨拶では、2016年に日本で開催された特別展「黄金のアフガニスタン-守りぬかれたシルクロードの秘宝-」に関するエピソードが紹介されました。開催が決定した際、誰よりも喜んでいたのが前田先生だったそうで、特別展が終了した後も、展示された遺物が無事カブールに戻る前に散逸してしまうようなことがないよう、最後まで目を光らせていたそうです。

 

第一部の冒頭では、1964年と1969年に行われた名古屋大学によるアフガニスタン学術調査に前田先生と共に関わった宮治昭先生(名古屋大学名誉教授)から「名古屋大学のアフガニスタン調査と<夢想・歴史・神話/宗教>を結ぶ前田学の原点」と題した発表がありました。N窟の発見をはじめとする多くの成果をあげたこの調査に学生時代に関わった、前田先生の若かりし日々のエピソードが紹介されました。

 

続いて、成城大学の調査隊の一員として、1975年と1977年の2次にわたって共にバーミヤンの調査に携わられた中野照男先生(東京文化財研究所名誉研究員)から「成城大学バーミヤン調査と前田先生」と題した発表がありました。この調査の後、ソ連の侵攻を引き金として、アフガニスタンは長きにわたる戦火の時代に突入してしまいます。アフガニスタンでの現地調査が難しい間、前田先生はパキスタン・バローチスタンの調査に力を入れられました。その調査を共にされた村山和之先生(和光大学講師)からは「バローチスターン踏査の10年」と題した発表があり、両先生とも前田先生と寝食を共にした当時の様子を振り返られました。

 

この成城大学の調査以来、実に25年ぶりに前田先生がアフガニスタンの地を訪れたのは2002年、大仏が爆破された後のことでした。それ以降、前田先生は遺跡の修復とバーミヤンの復興に心血を注がれます。ユネスコ日本信託基金を通じたバーミヤン遺跡の保存支援事業に前田先生と共に携わった山内和也先生(帝京大学文化財研究所所長)と谷口陽子先生(筑波大学准教授)からは、バーミヤンでの前田先生の活躍が生き生きと語られました。

 

最後に、岡田保良先生(日本イコモス国内委員会委員長)が「バーミヤンなどの世界遺産登録について」と題したお話しをされ、バーミヤンをユネスコ世界遺産に登録すべく尽力された前田先生の功績を偲びつつ、第一部は終了しました。

 

 

 

第二部は「前田耕作先生 その多彩な足跡」をテーマに座談会形式で行われ、井上隆史先生(東京藝術大学客員教授)のモデレートのもと、守山弘子氏(文化庁文化遺産国際協力室長補佐)、玉井賢二氏(元公益財団法人文化財保護・芸術研究助成財団専務理事)、清岡 央氏(読売新聞社文化部記者)、沖満珠恵氏(オクサス学会)、関根正男氏(アフガニスタン文化研究所)からそれぞれ、前田先生の様々なエピソードが語られました。

 

閉会にあたっては、スーパークローン文化財の技術を用いてバーミヤンE窟仏龕天井壁画《青の弥勒》の原寸大復元も試みた宮廻正明先生より、前田先生のご家族へ復元壁画が贈呈されて「前田先生の業績を語る会」は終了しました。

(写真提供:青木良輔氏)

前田先生の志を継いで

前田先生は文化遺産保護に関わる人材の育成にも力を入れ、国内外で文化遺産国際協力の裾野を拓かれました。今は前田先生の教えを受けた研究者がさらに若手へとその志を受け継いでいます。


仏陀最後の流転の旅の語らいを経典として文字化したのが《大パリニッバーナ》(『大般涅槃経』)である。釈尊は死を前にして弟子たちに語った。「これからの未来はどのようなものと受け入れられ、語られねばならないか」と。
「シャカ」が最後に旅ではなった言葉がまことの意味で受けとめられたのは遥か西方バーミヤンの地においてであった。  2022年夏 前田耕作 

前田先生が病床で残された言葉です。前田先生の心は最期までアフガニスタンと共にありました。
アフガニスタンでは現在も厳しい状況が続いていますが、60年前に前田先生が初めてバーミヤンの大仏を目にしたあの頃のように、穏やかな日々がいつか彼の地に訪れることを祈るとともに、文化遺産国際協力がその一助となることを信じて、私たちができることを一つ一つ重ねていきたいと思います。前田先生、ありがとうございました。

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