Column文化遺産コラム
真珠、石油、古墳の国バハレーンへの国際協力事業(II) : 日本隊による学術調査と新発見
2019年06月17日
文化遺産国際協力のいま 安倍 雅史
東京文化財研究所 文化遺産国際協力センター 研究員
私たち日本隊は、前2200年頃から築造がはじまったバハレーンで最も古い古墳群ワーディー・アッ=サイル古墳群で調査を行い、ディルムンを築いた人々がどこからやってきたのかを研究しています。
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日本隊の発掘調査の開始
2011年に実施した相手国調査の際、バハレーンの文化省から別の要望も寄せられました。
日本の調査団にディルムンの古墳群の発掘調査を行って欲しいとの要望でした。
発掘調査は、古墳群の魅力を高め、博物館の展示内容をより充実したものにするためにも、きわめて重要です。
そこで、私たちは、2014年に新たに発掘調査団を立ち上げ、ディルムンの古墳を対象に学術調査を開始しました。
また、私たちは発掘のほか、バハレーンの方々やバハレーンに住んでいる日本人の方々に広く調査成果を知ってもらうため、現場説明会や講演会、学校への出前授業なども精力的に行っています。 -
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王墓からの大発見- ディルムン王「ヤグリ・イル」
さて、今から2年前に、ディルムンに関して大発見がありました。
ディルムンは、前2000年頃から前1700年頃にかけて、南メソポタミアとオマーン、インダスを結ぶ海上交易を独占し繁栄したことが知られています。
このディルムンの繁栄ぶりを象徴するのが、アアリ古墳群の北辺にある「王墓」と呼ばれる巨大古墳です。
バハレーンに残される古墳のほとんどは直径10m以下と小型のものですが、このアアリ古墳群の北辺には直径が50m、高さが10mを超すような巨大古墳が10数基存在し、ディルムンの王の墓だと考えられています。
バハレーン隊が、この1基(前1700年頃のもの)を発掘した結果、楔形文字でディルムン王「ヤグリ・イル」の名前を刻んだ石製容器の破片が出土したのです。
実際に、巨大古墳から王名を刻んだ資料が出土したのは、今回がはじめてのことでした。
ディルムンの王の名前がわかっただけでも大発見だったのですが、さらにこの「ヤグリ・イル」という名前がアモリ系の名前であったため、学界は騒然となりました。 -
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南メソポタミアの西方に暮らした遊牧民 アモリ人
アモリ人とは、南メソポタミアの西方に広がるシリア沙漠に暮らした蛮族・遊牧民のことです。
南メソポタミアの人間にとってこの集団は、中国にとっての匈奴のような存在で、定住生活を絶えず脅かす存在でした。
前2200年頃、地球規模で乾燥化がはじまると、このアモリ人は故地であるシリア沙漠を捨て、南メソポタミアに侵入し、軍事力を持って南メソポタミアの有力都市を支配するようになります。
前1750年頃に活躍したハンムラビ法典で有名なバビロンのハンムラビ王もアモリ系で、先祖はシリア沙漠に暮らした遊牧民であったことが知られています。
今回のアモリ系の名前を持つディルムン王名が刻まれた石製容器の発見によって、南メソポタミアから遠く離れたバハレーンにもアモリ人が侵入し、王朝を打ち立てた可能性が高まったのです。 -
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ディルムンの人々の系譜をたどる
前2200年以前、バハレーンは、ほぼ無人の土地であったことが知られています。しかし、前2200年頃、どこかしらの土地から人々がバハレーンに移り住み、圧倒的な数の古墳を築造しはじめます。そしてディルムンの名のもと、前2000年を過ぎた頃から海上交易を独占し繁栄をきわめていきます。
私たち日本隊は、まさに前2200年頃から築造がはじまったバハレーンで最も古い古墳群ワーディー・アッ=サイル古墳群で調査を行い、ディルムンを築いた人々がどこからやってきたのかを研究しています。
人々はお墓に関しては保守的で古い墓制を維持する傾向があるため、集団の系譜を研究するうえで、墓制は最良の研究材料なのです。
私たちの研究によって、このワーディー・アッ=サイル古墳群とそっくりな古墳群が、アモリ人の故地とされるシリア沙漠に広く分布していることがわかり、日本隊の調査からも、ディルムンは、シリア沙漠からやってきたアモリ人が打ち立てた王朝であることが裏付けられようとしています。※発掘調査団長は後藤健氏(東京国立博物館)、副団長は西藤清秀氏(奈良県立橿原考古学研究所)
※肩書きは2019年3月現在。写真は筆者撮影。(*)バハレーン文化省の寛大なる許可をいただき、写真を使用させていただきました
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