Column文化遺産コラム

文化遺産の「ヒト」

バーミヤーンの思い出

2021年03月30日

インタビュー 前田耕作

東京藝術大学 客員教授/和光大学 名誉教授

文化遺産国際協力コンソーシアム 顧問
専門はアジア文化・思想史。1964年でのアフガニスタン・バーミヤン遺跡の考古学調査以降、長年にわたり西アジア・南アジア諸地域のフィールドワークを行う。
とりわけバーミヤン遺跡の保存事業に大きく携っており、紛争下における文化遺産保護の重要性を世に発信し続けている。

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事務局より

このインタビューは、文化遺産国際協力コンソーシアムが令和2年度に作成した動画「人類の宝を未来につなぐ~日本の文化遺産国際協力~」のためにお話を伺ったものです。動画には時間の関係でその一部しか含めることができませんので、このような形でご紹介することとしました。伺った貴重なお話はこれだけではありませんので、今後もご紹介していきたいと思います。

研究のきっかけは?

1964年、アフガニスタン学術調査団に参加

1964年、東京オリンピックが開催される年に、当時在学中だった名古屋大学で、アフガニスタンに学術調査団を派遣する話が持ち上がりました。1964年は玄奘三蔵の死後1300年を記念する年で、玄奘三蔵の歩いた道をアフガニスタンに辿りたいという希望が仏教美術の研究室から出され、それに応える形で、大学から学術調査団を派遣することになりました。
当時の私は、特別仏教美術に関心があったわけではないんです。
アフガニスタンにおける仏教美術の中心はなんといってもバーミヤーンですが、アフガニスタンでは1923年よりフランスが独占的に考古学調査を行っていたことから、報告書は全てフランス語なので、フランス語ができる人材が必要ということで、私も参加することになりました。
現地に行ってみると、アフガニスタンの担当者に通じるのはフランス語かダリ―語だけで、調査団にはダリ―語ができる人がいなかったので、フランス語での交渉では私が中心的な役割を果たすようになりました。急遽フランス考古学隊の研究書を背中にしょって、現地で研究をしながら調査の対象に向かい合うという状況が生じたのです。
それが私の、バーミヤーンとの関わりの出発点です。

当時の様子は?

国王の治世の下、平和なアフガニスタン

当時のアフガニスタンは、現在からは想像できない平和な時代でした。最後の国王となったザーヒル・シャーの治世の時代で、国王は日本への親近感を持っておられました。私たちの訪問の後、国王の招待で当時の皇太子ご夫妻がアフガニスタン・バーミヤーンを訪問されたのが、最後の平和な時期だったように思います。
首都カーブルでは、これぞ中央アジアといった、バザール(市場)の風景が活気にみちて残されていて、まさに文明の十字路と言い伝えられてきた通り、あらゆるものがここで取引されていて、豊かだなと思いました。さすがに貨幣価値は下落していて、皆なけなしのドルを闇市で交換していました。そういった意味ではアフガニスタンの人たちも戦後の日本に特別な思いを寄せていて、極めて親切で、いい時期だったと思います。
アフガニスタンでの国内旅行の許可を得るための交渉にひと月の時間を要しましたが、おかげで周辺の遺跡、テぺ・マランジャンやたくさんの仏塔などをくまなく見る機会に恵まれました。その中で印象的だったのは、オーレル・スタインの墓 — 土地の人も当時オーレル・スタインの墓はどこにありますかと聞くと、キリスト教徒の墓地にありますよと ― 誰でも知っているという時代でした。
当時泊まっていた国立のカーブルホテルでは、たまたま出会ったアメリカ人女性と話してみると、オーレル・スタインの伝記を書きに来ているということで、名刺をいただいたらミルスキーと書いてあり、その方はのちに『考古学探検家スタイン伝(Sir Aurel Stein, Archaeological Explorer)』という本を出されました。日本では杉山二郎先生が翻訳されています。その著者とオーレル・スタインの話をできたことは、とても思い出深いです。

初めて見たバーミヤーン

バーミヤーン大仏との対面

バーミヤーンまで当時はものすごく時間がかかりました。自動車でカーブルを朝5時か6時に出て、ヒンドゥークシュの山の中を突っ切り、標高2500メートルのところまで上がっていきます。その途中にある遺跡にも寄り、最後の一番大きな峠を越え、バーミヤーンの谷に入ったときは既に真っ暗でした。
バーミヤーンには電気が通っておらず、車のヘッドライトを頼りにようやくホテルにたどり着きました。ホテルといっても木造2階建ての宿で、辺りには何も見えませんでした。
あくる日、私たちはホテルの2階に泊まっていたのですが、5時に日が差し込むと、真正面に東大仏が太陽の光を浴びて立っておられて、本当に感動しました。この時同行していたのが、薬師寺の安田暎胤さんというお坊さんで、私よりも早く起きて、線香をたいて、合掌して、お経をあげられていた姿と、その仏様との出会いが、私の生涯忘れられない風景になっています。

調査の思い出

報告書にない石窟を発見

カーブルでの交渉事でくたびれてしまって、バーミヤーンに入った途端、私は1週間寝込んでしまったんです。それで、先を目指す調査団と別れる形で、一人バーミヤーンに残ることになりました。
バーミヤーンでは、背負ってきたフランス隊の報告書を一つ一つ訳しながら、その日訳した分だけ、その石窟を見て、一つ一つ巡っていきました。そのうち、ふと報告書にない石窟がいくつかあることを発見しました。
日本隊は初めて調査に入るので、フランス隊の調査に基づいて、報告書になっているものを確認し、そうでないものを明確にするということが一つの大きな仕事だったのですが、やってみると確かに、フランス隊が調査した洞と、そうでない洞があることがわかりました。それからもう一つ、東大仏の上に、太陽神が描かれた壁画があったのですが、実物を見て、フランス隊が書き起こした図とは違っているということがわかりました。
これらの発見が、私のアフガニスタン、バーミヤーンへの思いをかき立てる、大きなきっかけだったと思います。

2001年、大仏が破壊される

大仏の破壊後にアフガニスタンを訪問して

世界中に配信された大仏爆破の映像を見て、非常に衝撃を受けました。私だけではなく、その当時バーミヤーンに深い関心をお持ちになっていた平山郁夫先生や、皆さんが大きな衝撃を受けたニュースでした。
2001年の3月に大仏が爆破され、2002年の1月にタリバーン政権が崩壊した後、アフガニスタン復興支援東京会議が開かれたのですが、そこには平山先生もおられて、2人で、バーミヤーンの復興にどのように我々が力を貸せるのかということを話した覚えがあります。
9月に私たちが訪問した時には、カーブルの博物館は天井も剥がれ、ロケットガンによる被害で惨憺たるもので、所蔵品にまで破壊の手が伸びていました。ただ、博物館の入り口に、『この国にもし文化が生き残っているとすれば、国もまた生き残るであろう』という垂れ幕がかかっていて、それが非常に印象的でした。博物館内の惨憺たる状況、破壊された仏像と、その前に書かれた垂れ幕が、アフガニスタンの戦後復興の国際的な協力を呼び寄せるメッセージとして大きな意味を持ったというように思います。
破壊された大仏は、それ以前の遺跡を見てきた者にとっては、実に衝撃的な光景でした。私たちが調査して、記録に留めたものの8割が消え去ったのです。有名な東大仏の天井画、西大仏の天井画は一片の断片も残らないという徹底ぶりでした。われわれは非常に大きな衝撃を受け、しかし、だからこそバーミヤーン遺跡に対して、さらなる援助をしなければいけないという覚悟を新たにしたのです。

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